きのう3チン(夫と長男と次男)が川で蟹をとってきて。バケツの中で水草やエサをあげて観察していて。
さっき3チンが出かけるときに蟹が逃げないようにちゃんと蓋を!て話してて長男がバケツに蓋をしていった。
私はしーんと静まりかえった家に一人、何やらガサゴソと音がする。蟹がバケツの中で動いているのかなぁと思いながらもなんかヤな予感がして見に行ったら、蟹が蓋のスキマから出て歩いてた!!
ぎゃーーー!!て叫んだ。
そういえば小学生のときも居間の虫かごの中にいるはずの蟹が私の部屋の前の廊下にいて、ぎゃーー!て。
蟹はかわいいけど、さわれないし急に予想外のところにいるとびっくりする。
今日は秋田の母親の誕生日で電話をしたら、三四郎(両親の闊歩料理店)のバケツの中にいるスッポンがバケツから脱走していてお父さんが店の玄関をあけたときに床にスッポンがいて、お父さんぎゃーーーー!!
て叫んだらしい。
私も父も、自分より小さい虫や動くもの系を触れない。いちいち、ぎゃーー!て叫ぶ。 周りを驚かせてしまう。
引っ越す前の家は古すぎてナメクジが台所の床に現れたりしたんだけど、7年間住んでいてナメクジに4回遭遇したのは、私だけ。3チンは全く会わない。必ず私だけ。。
ネタはほかにもいろいろある。
こうして文をつくっていても蟹が動いている音が玄関のほうから聞こえてくる。。蟹とのぶのふたりきり。平らなところを歩いていればザルをかぶせようと思うのだけど、もうどこにいるか分からない。。居間に繋がる扉は閉めてるから今のところ私は安心だけど、蟹さん、玄関のどこにいるんだろうか。。蟹も水場がほしいだろうな。バケツに戻ればいいのに戻らないのかな?
3チン、早く帰って来て!!
*Facebook投稿後スグ帰ってきた
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で、ここからは蟹やスッポンではなく本題?の、「ニガテな人の前にニガテなことモノが現れる!?」について、エネルギーや宇宙の真理の側面からかいてみます。
自分と向き合って自己受容で整っていくほどに、周りにニガテやことやものが現れなくなったり、現れても気にならなくなる、というのは多くの人が経験しているかと思います。
向き合って整っていくことで「排他意識」がなくなって、「あってもいい」「いてもいい」という尊重意識になる。中庸な状態になるほど、ニガテなものに振り回される現実が起きなくなる。
なくなればいいのに。。!と排他意識で目の敵にしているようなときは、イヤダイヤダ思うほどに目に前にどんどん現れて、ますますイヤになるw
でも私たちの大元は、目の敵にする存在がないほうがラクに生きることができる。ラクになることを大元は望んでいるから、受け入れるまで、これでもか!と目の前に提供されちゃう。
「あの考え方ありえない!」「あんなやり方ありえない!!」とかの思想や行動もね。「ありえない!!」が強くなるほどに、現れ続け創造し続ける。
でも、見方捉え方がグイッんて変わると、排他意識がなくなって、ニュートラになったり。
存在への否定がなくなって、ただただ、「好みの違い」として、住み分けてきに共存するようになる。
家族の嫌いな癖や考え方や子供のこともSNSにいる人のことも、ありとあらゆることが、ね。
三次元てきな対策としては、シンプルに、「会わない見ない関わらないところに自分が移動する」というのも功を奏でるよね。
昔の私は、「嫌いなものを克服しないと!嫌いと向き合って大丈夫にならないと!」て修行てきに思っていたから、移動するサヨナラする という選択をしなかったからなかなかハードでしたw
まぁこれも、「ぜんぶ受容。みんな仲間。みんな同じ」というワンネス意識があるが故の偏りでもあったみたい。
「不快だから離れる、避ける」は人によっては簡単で、むしろ多くの人は離れることは簡単にできるのかもしれない。
でも、自分の見たくない闇に蓋をして排他意識で離れるのと、「自分の一部」として尊重意識で離れる選択をするのとでは、そのあとに創られる現実は違ってくるんだな。
蓋をすると、いっとき離れてラクになっても、またときと場所と人を変えて、蓋の中がうずく感情が起こったり。
向き合うって、相手や対象そのものに向き合うというより、対象をとおして湧く感情の大元、観念と向き合う、てことよね。
蟹やスッポンも蟹やスッポンそのものがどうというより、「びっくりさせないでよ!!!!」ていう、びっくりさせられるのが不快、サプライズはニガテ、なんでサプライズニガテなの?把握していたいから、なんで把握してたいの、、?て、掘り下げる
は、いちいちしないよ笑
ハード設定じゃなくなったから、3チンすぐに帰宅した。
子どもたちが蟹の家のインテリアを買ってきてカラフルになった。写真で蟹、どこにいるか分かるかな?😆
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