「これってどうなのかなぁ?」と
友人から聞かれた状況を見てみたら。
「提供するものの値段=提供者の価値」として
純粋だった貢献意識がお金稼ぐ系コンサル受けて
排他意識や傲慢さに傾いているご様子かな〜。
「自分の心地よさを守るために心地よく感じる人のみとつきあう」も
とても大切な選択だけれど
合わない重い人たちと居ると重さが移るから しっし!😠て
排他意識になっていたり。
そうなる大元は
他者にみとめられなかった悲しみ、悔しさ。
自分が自分を大切にできなかった悲しみ、悔しさ。
自己価値=お金 という錯覚で稼げるようになると
視野が狭くなって「稼いでる自分スゴい!上!」になる。
つまり、稼げない自分を受け入れられなくてキラいだから
内心、足元をすくわれたくない槍と盾の防備の不安がつきまとう。
重い人といると移るからしっし!も
侵食されて脅かされる自分と侵食してくる相手 という敵対意識があったりで。
つまり、重くて依存的だった過去の自分が
キライなままなのだなぁ。
自己犠牲で与え続けて疲弊した自分と
疲弊させた相手をゆるしていなくて、怒ったままだったり。
無料で提供してると疲れるからやめます!て、大事。
エネルギーバンパイヤの相手はしません!て、大事。
でも、同じ行動選択をしても
悲しみ悔しさが残ったままで線引きの選択をするのと
悲しみ悔しさが統合浄化されている状態で選択するのとでは
創られる現実は違ってくる。
排他からつくられる現実と
尊重からつくられる現実。
結局、自分に返ってくるんだよなぁ。
不快だから疲れるからシャットアウトする!!は
線を引いてシャットアウトすることができなかった
奉仕心のある優しい人たちには
立ち上がるために必要な選択で大事なプロセス。
でも、シャットアウトする も
シャットアウトの行動の根底にある悲しみに蓋をしたままだと
敵ありきの不安の世界を創造し続ける。
人には元々みんな、純粋に溢れる貢献意識や奉仕心がある。
純粋な奉仕って、自己犠牲からは絶対成り立たない。
純粋な奉仕心が
報われないように感じて傷ついて疲れた傷み。
その傷みを浄化してあたためる。
排他意識がない状態で
本来溢れる貢献意識と奉仕心に
結果的に富のひとつであるお金があって。
だからこそ、受け取る許可を。
「純粋な気持ちだからお金はいりません」って
お金を下にきたなく観ていた自分のことも、浄化だよ。
「受け取る金額と自分の価はイコールではない」が
腑におちてる状態で
上限なく受け取れる自分に許可を出す。
上限なく溢れる貢献意識や奉仕心を見返りなくどんどん渡す許可をだす。
奪われる自分 という錯覚があるから
奪う相手 という錯覚を存在させ続ける。
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