奪う奪われる と解釈する次元もあるけど
本当は
与えても出しても 減らないよ。
減る恐れがあるときや 奪われたと感じるときは
エネルギーを奪われて吸われる役を演じているだけ。
相手を、奪う人 として観ている状態。
相手にこんなに渡したのに
こんなに与えたのに、、!と思い込んでいるだけで
相手は、あなたの大元にある愛の光を引き出すサポートをしてくれたのかも。
無限大の豊かさ。
ここにアクセスするようになると
溢れるものを惜しみなく渡せるようになる。
そして、奪われる減る という幻想から
抜けることもできます。
ただもちろん「循環できない」と感じる状態のときに流しても
循環できないことの不自然さを感じるから
人間意識としてはつかれるし
くるしくなるから潔くベクトルを変えることも必要。
循環できないなぁと感じるときに
奪われた と解釈しがちなのですが
そもそも、奪われないんです。
減らないんです。
奪われていないから
返してもらわなくても大丈夫なんです。
返してもらいたくなるけど
自身の中にある尽きることのない豊かさのエネルギーにアクセスすれば
返してもらわなくても大丈夫なことに気がつきます。
いつでもどんなときも
降り注がれているんです。
相手と境界線をひいてベクトルを変えると
相手が可哀想に思えたり
もしくは排他意識で奪うな!てシャットアウトする意識になりがちだけど
そもそも奪われないから
相手にも気づきが起こるし
相手も本来は溢れる豊かさをもっている大丈夫な人ですし
排他しなくてもいいんです。
循環という自然の摂理の中にいる心地よさに
フォーカスしていればいいだけ。
尽きることのない溢れる豊かさを
循環できるところに溢れ続けさせるだけ。
昔からエネルギーバンパイヤとか
奪う奪われる の解釈がしっくり馴染めなくて。
もちろん、この概念が私を救ったこともある。
循環が起こらない相手に渡し続けていて
疲弊することが多かったから
エネルギーバンパイヤという概念を知ったときは
自分を責めることをやめることができた。
でもどこかで
相手はエネルギーバンパイヤだから、とするのも腑に落ちなくて。
だって私自身も
エネルギーバンパイヤといわれる状態になっていたこともたくさんあったわけで。
相手も自分の一部であって。
そして結局、奪う役割も奪われる役割も
自身の中にある溢れる豊かさじゃないところをみているときなんだなぁ。
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